昭和五十七年五月十三日 朝の御理解


御理解第八十九節

「此方の道は傘一本で開く事が出来る」


 三代金光様のお言葉として、私が頂いておる御教えですけども、真の信心とは安心のおかげを頂く事であります。真の信心とは、安心のおかげを頂かなければなりません。と同時に私は真の信心には必ず真のおかげが伴う、と云う事でありますね。
 自分の信心が、真の信心を目指しておるけれども、果たして真の信心の軌道にそった道を進めておるのか。勿論、真の信心と云うのですから、限りがなかろう、と思いますね。
だから、あの世、この世を通して魂の世界に入っても真の信心を求め続ける訳でしょうけれども、その真の信心の軌道にのっておかないと、あられもない所に出てしまうような事になりはせんかと。
 昨日は、福岡支部の御大祭でしたが、高宮ホテルですか、全館借り切ってしたのでしょうね。それぞれの控えの部屋部屋に、軸や額も全部私の書いたものと取り替えてあった。
 と云うように、全館借り切っての盛大なお祭りでしたが、さあお祭りが段々進められて参りますのに、今日は、これを皆さんに聞いてもらおう、と云うお知らせも頂かなければ、頭に浮かびもしないのです。
 これは、若先生にお説教さしたらよかろうか、と思う位に何にも頂きませんでした。
 私の、この装束を替える小さい部屋が横に用意してございましたが、その床の間に富士山の額がかかっとりました。
 もう教衣を付けてしもうて、さあ今からお説教なんだが、と心に思い思い教衣を付けさして頂きましたら、床の間にかかってる富士山の絵を頂きましたから、それこそ行きあたりばったりのような事でしたけれども、ま、富士山頂を目指すという、あの御理解になったわけですね。御教えになったわけです。
 これは、私も過去に、そう思った時代がございましたが、もう何様でも同じ。
 それぞれの登り道は違っても、極めて行こうとする富士山頂は同じだ、極めた所は同じだ、と。
 仏教だって、キリスト教だって、金光教だって、極める所は同じだ。というふうに思っておったのが、それが違うと云う事をね。
 その証拠には、助かりと云う事につながっていかないわけ、今日の御理解で云うならば、本当の安心のおかげを頂いてない証拠におかげが伴わない。
 成程、数千年の歴史をもった宗教ですから、色々。広がる事は広がったけれども、広がっていけば、いく程に、何て云うですか、教理て、云うですか、教典て云うか、その難しさ、と云うか。
 人間が助からなければならん宗教が、助かる事の出来ないようなシステムと云うかね、仕組みになってる、と云う事。
 頂上を目指して行きよったんでしょうけども、どっか、ヤブの中に入りこんで、そこに落ちこんでしもうて、そこから一歩も出られないような状態になった。
 例えば、キリスト教で云うならば、長年の間、宗教戦争の絶えた事のない、と云うような悲惨な宗教ですね、この宗教は。
 もう本当に、悲惨です。
 一生十字架をかろうて歩かなきゃならない宗教です。しかもそれだけぢゃないです。同じ宗教者同志が血で血を洗うような事が長年続いてきておる、その事実からみてもね、大体おして知るべしだ。 仏教なんかも、そうでしょうがね。
 因縁の、輪廻の、と云い出したら、もう兎に角助かりようがないんです。
 そりゃ、成程、仏教でも安心立命と云ったような言葉があります。 教祖様がおっしゃる傘一本で開ける道と云うのは、傘一本を持っておれば安心なのだ、いつ曇ってきても、降ってきても、濡れんですむ、慌てんですむ、と云う、その心の安らぎなんです。
 その心の安らぎには、必ずおかげが伴う、と云う事ですね。
 竜安寺の手水鉢ぢゃないですけどもね、我只足知と云ったような事は、こう諦観的なものですね。
 もう色々にあせってもみた。
 幸せにもなりたい、お金も儲けたい、とこう思うてみたけれども結局はね、なるようにしかならんのだと。現在の、今の、生活に甘んじてね、我只足知、これでよいんだ、と云う気持ちになれと、云うのが手水鉢に書いてありますね。
 我只足知、ね。
 要るだけは風が持てくる木の葉かな。等もやっぱりそれの部類だと思うですね。
 良寛さんの、あの五合庵なんかでもそうですね。五合以上の米はいらないんだ、そりゃそうぢゃろ、一人だからね。食べてしもたら托鉢に出ればいいんだ。そういう事が、何か、いかにも、宗教による救い、と云うか助かりの極致のように思うたり、云うてきたりしたですね。
 あきらめです。いわゆる。
 金光教の信心は、そうぢゃないですね。
 今日なら、三代金光様は、ね。
 真の信心とは、安心のおかげを受ける事であります。
 その真の信心によって、安心の心が開けてきたら、人間、幸せの条件の全てが足ろうてくる、と云う真のおかげが伴わなければ、おかしいんです。
 私は、そのちょっとした、見本のようなものが合楽だと思うんですね。
 人間の、幸せの条件と云うか、必要なものが足ろうてくると云う。諦めぢゃないです。もうこれでよかよかぢゃない。
 その願いと云うものは、もう限りがないものですね。小欲を捨てて、大欲に生き抜かせて頂くね。
 しかも、その大欲は、神様が願われるお心に、添い奉ろうと云う欲なのですね。
 合楽世界の顕現は、そこからなんです。
 あいよかけよの信心は、そこからなんです。
 心に喜びの、安心の力を頂いて、その力をもって、天地金乃神様の手にも足にもならせて頂こう。と云う大きな欲にならせてもらうね。そこから限り無い、おかげが約束される、と云うのであります。 私、自分自身の信心をこの三、四日しきりに、そういうふうな事を思うて皆さんに聞いて頂いておるんですけども、例えば、大変お徳を受けられたと云う先賞の先生方の真似でもさして頂こう、と様々な修行に取り組んだ。
 所がね、例えば、昨日も、その事を話した事でしたけども、私の、神様と私の交流の中に、思わせられたと云う、徳の一種でしょうね。 お商売しておりましても、この家に寄れと、しきりに寄らずにおれないように心の中に思いがおこってくるんです。
 寄ると、やっぱり寄らなければならない用件がある、とかね。
 例えば、道を歩いておっても、右だ、左だ、と云うように思わせて下さる、と云う、思わせの徳と云うふうに申しておりましたが、その時分に、手みくじ、と云うのがありました。
 この十本の手の指に表れるんです。お伺いなんかでも、この指の中から感じさせて頂くのです。もうあの時分の事は忘れてしまいましたけれども、それこそ、肉眼で、教祖金光大神の世界を本当に、まざまざと拝んだ事があるのです。
 私に、ちょいちょい有って居った事は、身体全身が、こう、しびれてしまうんですよね。
 そして、ほっと、目が覚めたようになった。はあ、これで、自分は終えてしまうのかなあ、と思いよったですね。
 目が覚めますと、口の中が、酸ゆくなって、ハア電気にかかると云うような事は、こう云う事ぢゃなかろうか、と思うような事が再三ありました。
 ある時には、もう雷よりも大きい大音響が屋根の上に響く事がありました。                          だから、そういう時分の事を云うても、皆が本当と思わなんだろう、と云ったような事がいろいろ、次々にございましたが、成程ね、初代先覚の先生方の真似でもさして頂きよる時には、そういう事には、非常に、動物霊なんかが、かかってくるんですね。
 電車に乗ってると、前の紳士が持ってる鞄が、牛皮で出来てるんですね。その鞄が、その牛が私にすがり求めてくるんですよ。
 前におる人の靴の底が、やっぱ馬か牛かでしょうね、その霊が私に助けてくれ、と云うてくるんです。
 道を歩いていて、ほこらのような所があると、必ずと云ってよい位に、そういう事がありました。
 ある時なんか、御本部参拝の時、教祖奥城で御祈念さしてもらいよりましたら、○○神社の元神馬であった、と云う馬がね、ある御無礼のために普通の馬に落とされてしまったと云うのです。それを嘆き悲しんで、私にもう一遍天地の神様にお詫びをしてくれと云ったような事が有りました。そんな事を皆さんが聞いても本当と思われんでしょうが、もうそんな事は沢山あったんですね。
 そういうような事には触れていったけれども、私の心に安心がうまれたり、おかげにつながる、と云う事はなかったんです。
 私の場合はね。
 そして、あらゆる表行の限りもつくさせて頂きましたけれども、私自身、助からなかったです。
 で、今にして思うのです。ここ四、五日特に思うんです。
 それは、あれで、おかげを頂かなくてよかった、と云う事なんです。
 そういう水の行、火の行さして頂いて、私が助かって沢山の人が助かるようになったら、合楽の信奉者もそこまでで終わりだったんです。
 所が、私はおかげを受けられなかった。いつも聞いて頂くようにね。
 私、こんなのを何時書いてあげたやろ、まあ、えらい見事な字。 額がかかってるんです。私の控えに、それを大きくね、額仕立てにしてある。
 それが自然にとけこんでいく事は、自然を生かす事だと書いてあるんです。
 合楽の信心は、ここが頂けてきた頃から真の信心に入っていったんです。
 自然の働きにこちらがとけこんでいく、と云う事は、自然そのものを生かす事なんだ、と。
 神様の御働きを御働き、事柄の全てを御の字をつけて御事柄として受けていく生き方には、天地の親神様を生かす事になるのですね。 あらゆる修行もしたけれども、私は助からなかった。
 そこで、思いつかせて頂いたのが、私の上に起きてくる一切の事柄を、もう黙って受けよう、どんな事であっても受けて受けぬこうと決心して受けた修行は、そんなに難しい事はありませんでした。 四年半でした。
 今から思うてみると、これでもか、これでもか、と云うお試しがあったようにも思うんですけど、それを、百点満点取って合格していったような感じがするんです。
 五年の記念祭にむかっての頃から、成行を尊ぶ。
 すべての事柄に御の字をつける。それが合楽理念の根本になったんです。そして、これが真の道であり、真の信心に天地と交流する手立てなんですよね。
 天の心とは、地の心とは、日月の心とは、と云うような、今日まででも噛んで含めるように合楽では説き明かされた、と思うんですね。ですから、それを皆さんが身に付けていく、と云う所から生まれてくる安心なんです。
 それが、傘一本なんですね。道が開ける、ですね。
 ただ諦観ぢゃない、あきらめぢゃない。
 まあ、どうとかなるだろう、神様の信心をしとりゃ、いつかはどうか、なるだろう。と、云ったようなものではなくて、
 我只足知、と云うだけではなくて、
 いつも願いがある。この位のこっちゃいけん。もっともっと、素晴らしい大きな願いを、いよいよ心の中に実感として頂かしてもろうてね。
 口だけではない。心の底から、天下国家の事を祈れる、思えれる、信心に、お育てを頂く事によって、いよいよその安心の傘は大きく育っていく事でしょう。
 その安心の傘に、いわゆる傘下、と申しますかね。
 傘の下、その傘下に沢山の人が潤い、助かり、濡れんですむ。いうならば、おかげをうける事が出来る事でしょう。
 今日、合楽の御比礼は、そういうものである、と私は思いますね。 まあ、私の過去の信心、と云うものには、こういう時代もあったと云う事を、やっぱり、話して残しておかなければ、そういう所でとどまってしまうから、ね。
 御霊様を拝むやら、そういう動物霊やらとの交渉やらが続いておって、ただ不思議だなあ、と思わせて、おかげを与えるような事では、本当の真の助かりにはならんです。
 真の信心ではないから、真のおかげにつながらないですね。
 いわゆる、三代様が、仰せられるようにね。
 真の信心とは、安心のおかげを頂く事であります。
 今日の御理解で云うと、この傘一本が頂ける道なのです。
 しかも、その傘が自分だけではなくて、その傘下に沢山の人がより集まって来れるような偉大な傘の頂けるような信心、と云うともう限りがないですね。
 その限りない信心を目指して頂いての信心修行。
 その信心修行もです、火の行ぢゃない、水の行ぢゃない。
 人間、誰しもがね、それこそ、人間らしい生き方をさせて頂きながらね、心行、信行、家業の行に、いよいよ取り組んでいけれる手立てを説くのが御理念だと思うですね。
 皆さんは結局、真の信心の入口に居る。ですから、これを一歩一歩。どうでも進めてね。
 この道を行けば、もう絶対、富士山頂に到達する事が出来るんだと。一歩一歩本当な所へ向かって進んでおる。
 また、ある宗教の例を取りますと、それに帰依する、傾倒していってると、ヤブの中に入って行ってしまわねばならない。
 もう、永劫、助かる事が出来ないような所に、入りこんでしまって、何様でも同じだ。登る道は四方八方から登れるんだけども、極める所は富士山頂だ。頂上だ、と云いもし、思いもしたけれども違うね。
 金光大神の信心も、過去百年に云うて来た信心ではダメだ。
 今、合楽で云われる御理念によらなければ、この頂上を極める事は出来ないと教祖金光大神がおっしゃるね。
 この方ばかりが生き神ぢゃない、皆もその通りのおかげが受けられる生き神への絶対の間違いのない道だと云う事をね、御理念の研究と共に、それを確信出来る信心を頂いて、頂いておられるだろう安心を、もっともっと偉大なものに大きな傘にしていく精進をして頂きたい。
 今日は十三日会ですから、神様の願いが成就する日と合楽では云われますがね。
 神様の願いは限りない、とてつもない大きな事なんです。
ですから、そういう神の願いに、答えまつる事の為に一歩一歩でもよいから、それに近づかせて頂く信心を頂きたい。
 絶対、これには、おかげがいらん、と云うても伴のうてくる事になってるです。諦めではないですから。
 もう、これでよい、と云う意味なもんぢゃないですね。そういうおかげを頂きたいのですね。
 此の方の道は傘一本で開ける道。その傘一本で開けれる道にまず出なければダメなんです。その軌道に乗らなければ、いくら金光様の御信心頂いておってもね。
 それが、次の時代に、それが継承出来るような内容のものでないならばね。
 私は、同じ金光様の信心しとります、と云うてもね。
 まあ、考え方を改めなければいけない。
 只、人が助かっとればよい、人が沢山集まりさえすればよい、と云うのであってはね、今、云うようにね。
 普通の人間では、分からないような事が分かる。
 霊徳的な面が開けてくる、と云うのは、どこどこの御不動様でも、どこどこのお稲荷様でも出来るでしょうがね、だからそういうもんぢゃない。
 どこまでも、金光大神の信心の御神徳、と云うのは、天地の徳です。
 天地の御神徳ですね。
 それを頂かしてもらう、おかげを頂きたい。
                        「どうぞ」